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日帝分教会のブログです。

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2025年(立教188年)11月月次祭神殿講話 ~天理教は最先端の教え~

1.自分の身体は自由にならない
 ただ今は11月の月次祭を人数の少ない中、本当に賑やかにおつとめいただきました。
会長が身上でまだ十分でないのが申し訳ありませんが、皆様のお陰で無事つとめさせていただきまして、本当に御礼申しあげます。
 先月の25・26日はおぢばで秋の大祭がありました。そして当日帝分教会からもおぢばがえり団参をさせていただきました。ちょうどその日に合わせて大教会でも家族そろっておぢばがえりという催しをしていただきまして、私は残念ながら行けませんでしたけれど、日帝分教会からは6人の方がおぢばがえりに参加していただき、またその中から2人が別席を運んでいただきました。本当にありがとうございました。
 私自身のことをちょっと申しあげますと、脊椎狭窄症で9月いっぱい入院をしておりまして、退院したらすぐに歩けるものと思いましたら、人間というのは20日も歩かないと本当に足の筋肉がなくなって、杖が無いと歩けないという状態でした。それから10月はリハビリをさせていただきまして、なんとか歩けるようになって、また11月1日はようぼく一斉活動日でむさしの支部にお呼びいただきまして、1時間ほどですが立ったまま講演ができて本当にご守護だったなと思います。そこに当教会の信者さんも4人お越しいただきまして、本当にありがとうございました。
 そんなことで自分が普段身上貸しもの借りもの大事だと言っているにも関わらず、心の底からそれを納得はしていなかったんだと思いますが、今は本当に心の底から、歩くのも神様のご守護、立っているのも神様のご守護、座るのもご守護、また、横になってまっすぐ背が伸びるのもご守護、本当に自分ではどうにもならないということが本当によく分かりました。
 そして先週は、元々の予定があったので人間ドックに入ってまいりました。以前も申しあげたことがありますけれど、人間ドックで自分のお腹の中、腸の中を全部見せてもらう、胃の中を見せてもらう。自分の身体でありながら見たこともない。あとその時につくづく思うのが、まったく自分では自由にならないということです。
 自分の胃であり自分の腸でもあるけれど、これがまったく自由にならない。食べたものを自分で消化して、出すのも自分でやっているつもりだけれども、そんなこと自分でできていない。そして身体中をお医者さんに見てもらいまして、ありがたいことに何事もないということでした。その年齢でなにもないのはすごいですねと褒められたくらいですが、それも実は自分がきれいにしたわけではなくて、神様からそういう身体をお借りしているんだということをつくづくと感じているわけであります。
 「かりものの理自由分からねば何もならん。」という、いつも申しあげますけれども、身の内貸しもの借りものということが分からなければ、何も分からない。人生の目的が分からない。生きている理由が分からない。これは神様から身体をお借りしているんだということを分かって初めて自分が生きている意味、この身体は自分のためではなく人様のために使わせてもらおうという、そういう意味が分かるということでございます。

2.口だけでも、言葉だけでも喜ばす
 そんなことで今更ながら自分の身体が神様から借りているということを本当に感じているわけでございます。そしてその翌週ですけれど、司法研修所の卒業50周年というパーティーがありました。つまり弁護士になって50年、裁判官になった者はもう定年ですけれど、検察官になった者も全部集まりました。そうしたらあの当時500人ほどの合格者だったんですけれど、なんと名簿上で生きているのが300人。200人もいなくなってしまいました。自分がそっち側に入っていてもおかしくないんですけれど、お陰様で生きている側に置いていただいて、パーティーをさせていただきました。
 そして次は55周年だということで、大阪でやるから、皆さん元気で来てくださいというのではなくて、大阪の代表が「皆さん生きていてください」という話をされました。もう私くらいの年齢でもあと5年というのは生きていてくださいというくらいのことです。当教会で見れば90歳を頭に皆お元気な方ばかりですね。これは本当に皆さんの日常の徳を積んでおられることから、神様がご褒美で貸してくださっているんだと思いますけれど、身体が動かなくても言葉だけでも感謝の言葉をする。言葉を出す。相手を喜ばせる言葉を出す。それだけでもお助けになるといつも申しあげています。
 身体が動かなくても、口だけで、言葉だけで相手を喜ばせる、相手を勇ませる。これが神様からのお借りしている身体の使い方です。
 私もいつも友人に言って笑われるんですが、整形外科にかかる病気というのは、首から上は元気なんだよ、と。首から下が不自由だから動けないんだけど、首から上は元気なんだ。だから電話で話したり、パソコン使ってリモート通話なんかしているとまったく元気ですから、どこが悪いか分からない。
 というわけで、逆に言えば、首から上さえ元気なら、人を喜ばせることができるということです。人を助けることすらできる。そう考えると、腰が痛いだの足が痛いだの、私も歩き方がどうのと言ってますけれど、そんなことはもったいない。動けるところだけ使わせてもらう。手が動くなら手を使って誰かのためになることをする。口から上しか動かなかったら口から上で誰かを喜ばせる、楽しませる。これが神様からお借りしている身体の意味ということで、ぜひこの機会にまた改めて貸しもの借りもののありがたさを感じていただきたいと思います。

3.男女の隔てはない
 さて、日本では初めて女性の総理大臣というのが出てきました。昭和になってからも100年、戦争が終わってからも80年になるし、明治時代からももう200年にもなる時に初めて女性の総理大臣が出てきた。ここで男と女ということに関して、こういうおさしづがあります。

「男女の隔て無く、一時に心澄み切りて通れば、男女の区別は無い。何名何人、こらどうもならん。道具に譬(たと)えて話する。粗い事するものもあれば、細かい事するものもある。又中程するものもある。この道理わからねばどうもならん。」(明治三十一年三月二十六日)

 つまり心澄み切って通れば男女の隔てはない。これが分からんから困る。男女の隔てはない、これはどういうことかというと、道具に例えて話をする。男であろうと女であろうと、粗い事するものもあれば、細かい事するものもある。またその中程するものもある。男と女という意味じゃない、人間によっては粗い事をする人もいるし、細かい事をする人もあるし、中程の事をする人もある。そういうことなので男と女の隔てはないのだ、というおさしづ。それをこの道に例えてお話しくださいました。

4.天理教は最先端の教え
「この道どういう事から成った。男女隔て無い。一つの台にして始め掛けた。この理がとんと分かり難ない。この道の始めた教祖一代の処は女、後席は男。男女の隔て有るか無いか。この順序の理、日々取り次ぎ、男女の隔て無い。」(明治三十一年十月二十六日)

 この道が一体どういう風に成ったかお前たち分かっているか。この道を始めた初代の教祖は女である。その後の本席、後席は男である。男女の隔てが有るか無いか。この順序の理で、日々取り次いでいる。男女の隔ては無い。
 これを教祖がもう明治、江戸時代の末期にこういう男と女の隔てはないぞということをおっしゃっているんです。いかにこの教えが近代的で平等で男との差別、人間の差別もしない、粗い事する人間もいれば細かい事をするものもいる、中程のものもいる。それぞれの徳分に合った仕事をすればいいのだ、ということで天保9年、今からまさに188年も前の頃から男と女の隔てはないぞ、と。この道は女から始まった。そして後は男である。男と女の隔てがあるか。こういう素晴らしいおさしづが残っています。
 それを今、初めて女性の総理大臣が出たからどうのこうのと言っているのをはるかに飛び越えて、教祖はこういうことからおっしゃっているということをしっかりと、私たちの教えはこういう素晴らしい教えなんだということを改めてこの機会に理解していただきたいと思います。
 なんだか初めての女性の総理大臣だなんだと皆ちやほやしているけれど、日本がいかにも先進国に入ったようなことを言ってますけれど、教祖からするともう200年も遅いぞ、とこういうことなんです。さらに女性の総理大臣と言っている限りはだめ、女か男かそんなことは関係ないんだとおっしゃっているんです。ですから男と女の隔てなく、また、身体が不自由な人も不自由でない人も隔てなく、全部が平等で一列兄弟というこういう教えを教祖はお話されているということで、しっかりと心を広く持ってこの教えの素晴らしさを改めて感じていただきたいと思います。

 本日はどうもありがとうございました。寒いのでどうか風邪などひかないように心勇んでお暮しいただきたいと思います

2025年12月06日

2025年(立教188年)8月月次祭神殿講話 ~神一条でこれ我が事~

1.暑くても喜ぶ
 ただ今は8月の月次祭、本当に賑やかにおつとめいただきました。
 先月なかなか上手くいかなかった太鼓も、お子さんがしっかりやってくれて皆を勇ませてくれました。やはり鳴り物、おてふりを覚えると人も勇ませるけれど、自分自身が本当に心が勇んできます。しっかりとおつとめを学んで、自分も皆さんも勇ませるようにしていただきたいと思います。
 今月は8月、歴史上初めてという41℃なんていう温度になりました。私の子どもの頃は夏休みは朝から野球ばかりしておりまして、朝5時くらいに起きて運動場へ行って夕方5時6時までずっと野球をして、その間おにぎり1個くらいもらって野球をする。ただ家を出る時に、今日は30℃になりそうだから気を付けなさいと言われたことをちょっと思い出しました。ということは昔の真夏というのは8月でも30℃いってなかったんですね。だからあの炎天下と言いますけれど、27~8℃の中で朝から晩まで野球をやっていてもそんなにおかしくならなかった。ところが今は30℃、40℃。これは細胞が全部壊れるそうですから、本当に暑い中大変ですけれど、これも神様のなんらかのご守護と思って喜んで通らせていただきたいと思います。

2.8月という月
 8月というと、人の命に関わる大きな事件がいくつもあります。皆さんご存知のとおり、6日は広島に原爆が落ちました。そして三日後の9日には長崎に原爆が落ちました。その落ちたことで、その年の内に亡くなった方が14万人もいたそうです。
 そして忘れもしません、今から40年前の8月12日。月次祭が終わってテレビをかけましたら飛行機が行方不明だ、と。日航機の123便、ジャンボ機が行方不明になってその日の夕方に墜落しているのが分かった。520人という、飛行機の事故としては世界最悪の事故というのが起きてしまいました。
 そしてまた最近では8月というと大洪水。今日も九州の方や石川では大変なことになっていて、線状降水帯というので大雨が降っているそうですけれど、それくらい大変な水害が起きています。
 そこでちょっと、世界のことも調べたんです。1914年に始まった第一次世界大戦で亡くなった方は、市民も兵隊さんも含めて、1600万人だそうです。そして第二次世界大戦、1945年の8月15日に終わった第二次世界大戦、これは世界中で5500万人が亡くなったそうです。合わせると、人間というのは7000万人以上が戦争で死んでいる。そんなことからもう絶対に戦争をするのはよそうということを今から80年前に決心をした訳です。その80年前の8月6日と9日落ちた原子爆弾を持っていたのは、当時はアメリカだけだった。ところがそれで皆で戦争はもうやめようと思ったにも関わらず、それからこの80年の間にアメリカ以外に8つの国が原子爆弾を持つに至ってしまいました。

3.人間の心遣い
 人間はまったく懲りていないといいましょうか、そういった中で親神様は人間の心は自由だと、心は自由に使わせていただくように作っていただいたんですけれども、その心の自由を人間に与えた時に、その人間が心得違い、陽気ぐらしの心、人を助けるという心を忘れてしまった時に、それに対して神様は手引きというものをくださる。一人ひとりの人間が、親神様がくださったこの大事な身体を誤った形で使った時には、ここを気を付けなさいよ、とちょっと手引きをしてくれて、そこでああそうか、私の心遣いはこういう風に悪かったんだといって心遣いを改める。そしてまた人間は一歩成人をしていく。これが成人の道なんです。
 ですからこの教えには病気なんていうものはない。全部神様の手引き。そんな中で今またこの長崎や福岡や熊本、あるいは石川県が昨日今日で大変な大水害。一日で50センチもの雨が降るそうです。平均して50センチならちょっと低い所へ行ったら何メートルになってしまいます。ということでそんな大変な雨が降っている。こういうおふでさきがあります。

 「このせかい山ぐゑなそもかみなりも ぢしんをふかぜ月日りいふく」(6-91)

 この世界、山崩れ、また、今で言う線状降水帯でしょう、雷が鳴ってものすごい雨が降る。そして地震が起きる。そして大風が吹く。大きな台風が来る。「このせかい山ぐゑなそもかみなりも ぢしんをふかぜ月日りいふく」。全部これは神様が人間に反省を促すためにそういう手引きをくださっているということをおっしゃっているわけですが、先ほどの話で人間は、実は80年前に反省したんです。平和はこんなに嬉しいものだ、こんなに明るい楽しいものだと実感をした。それは神様がやはり教えてくださったはずなんです。こういうおさしづがあります。

「神の自由して見せても、その時だけは覚えて居る。なれど、一日経つ、十日経つ、三十日経てば、ころっと忘れて了う。」(明治三十一年五月九日)

 神様の自由を見せてもその時だけは覚えている。皆がちょっと病んだ、苦しんだ時に神様にお願いをして、そして心を直したならばすっきりご守護をいただいた。それは神様のご守護、自由をして見せてもその時だけは覚えている。ありがたいなあ、しかしそれが「一日経つ、十日経つ、三十日経てば、ころっと忘れて了う。」。これが人間の心なんです。
 よく言われますが、「心というのはころころ変わるから心というのだ。」と。しかし神様は今のように、ころっと忘れてしまうからその都度手引きを出して心を元に戻すのだと。それが神一条の心ということなんです。
 神様を中心に物事を考える。どんなことが起きても、神様は私に何をおっしゃってるんだろうかということを考える。これが大事なことなんですが、その人間そのものが先ほど申しあげたように、原子爆弾、また、飛行機が壊れたのに、修理が中途半端だったために墜落して520人が亡くなった。一番安全だと思ったジャンボ機です。
 私事ですが、飛行機はずっと乗れなかった。51歳まで。そうしたら海外へ行くのにどうしても乗らなくてはいけないということで、練習に乗ろうということで絶対に揺れない飛行機だ、絶対に安全な飛行機だとして乗せてもらったのがジャンボ機です。本当に大きくてまったく揺れない。飛行機ってこんなもんだと思って海外の別な飛行機に乗ったら大揺れで大変でしたけど、それぐらい絶対に安全だというジャンボ機が落ちた。これも人間のわずか修理の鉄板一枚の間違いで落ちたそうです。
 ただそのお陰で大きな飛行機事故はそれから起きていない。少なくとも日本ではまったく起きていない。そういう風にして神様は一つの大変な節を見せていただくけれども、それによって次の犠牲が起きない、これが人間の進歩なんです。

4.神一条で我が事
 そこで大事なことは、それでは原爆を落とされた長崎や広島の方、あるいは今線状降水帯で悩んでおられる宮崎や熊本や大分や福岡や石川県の方たち、この人たちに神様はなんの手引きを与えているんだろうということ。これをただ外から見ているのではだめです。

「このはなしほかの事でわないほとに神一ぢよでこれわが事」(1-50)

というおふでさきがあります。神様が皆にしているこの話はどういうことに思うかな、神様の心を皆が探すように、求めるように神様の心で動いていくようにすると、世の中に見えていることはこれ全部自分の、我が事であるぞ、と。私たちの代わりにあの人たちがつらい思いをしてくださっているんだと思った時に、私に災難が来なくて良かったという心は浮かんできませんね。
 今苦しんでいる、悩んでいる人に対して自分の代わりに苦しんでいると考え、少しでも助けられることがあったらそれをやらなければいけない。直接出掛けていくことはできませんけれど、せめて一日も早く雨がやみますように、被害が少なくなりますように、一日も早く復興できますように、ということを皆さん一人ひとりが祈る。これが「神一ぢよでこれわが事」という意味なんです。見るものや聞くものすべて自分に対して神様が見せてくださっているんだということを考えてもらいたい。
 例えば、障碍(がい)を持つ子どもが生まれる。障碍の子どもが生まれて、なんでうちに生れたんだというと、そうではなくて、その人を見込んでこの人ならこの子を育てられるといって神様がその人に任せてくれた。
 あるいはなにかの因縁で、原因で非常に困った人が目の前に現れてしまう。その時になんで私の前にというのではなくて、神様があなたに期待してこの人を目の前に出してくれたんだという風に思って、目の前の方を助けさせてもらう。これが「神一ぢよでこれわが事」という意味なんです。
 だから皆さん、どんなことが起きても、あれは他人事、ということでは決してありません。全部みんな我が事。神様が見せてくれている。そして一列兄弟ですから、苦しんでいる方たちのために何ができるか。まず一番始めにできることは祈ること。それからもし余裕があれば色々な物資を送るとか、救援や救護をするということはあるでしょうが、なにはともあれ、今ひどい目にあっている方たちは私たちに神様が見せてくれた、本来は私たちがああいう目にあうことだったということをしっかりと理解をしていただきたいと思います。
 8月というのはそういう意味で人の命に関わることがいっぱい起きています。以前申しあげましたけれど、私たちは明日も生きている、来年も生きていると思っているけれども、それは単なる思い込み。その思い込みを思い込みではなく現実に生かせていただけるのは神様のお陰です。そういうことを考えたならば、一日一日が終わる度に、今日一日を無事に過ごさせてもらったことを神様に感謝する。色々な災難が起きてきたとしても、これは神様は何を私に期待しているんだろうということで神様の心に近付くようにする。こういうことでこの一か月お過ごしいただきたいと思います。

 8月まだまだ暑いですから皆さんどうぞ体に気を付けて、しかし一方で暑さに負けない身体をお借りしている、貸していただいていることに感謝をして、この一か月をお暮しいただきたいと思います。

 今月はありがとうございました。


※9月月次祭神殿講話は、会長入院のため無し
※10月秋季大祭神殿講話は、大教会長巡教のため無し

2025年12月06日

2025年(立教188年)7月中元祭神殿講話 ~順序一つの理~

1.あと7か月ある
 今月は中元祭ということで、中元の月次祭をやらせていいただきました。御中元というのは元日から大晦日までのちょうど真ん中、これを中元というので、要するに半分過ぎましたよ、ということです。一年で考えてみると本当にあっという間と感じますけれど、一年が始まって年賀状の整理をしなきゃいけないなんて1月の下旬に思っていたのが、もう来年の年賀状の準備をしなきゃいけなくなってくるということになります。一日一日ぼーっとしてますと本当に一年ぼーっと過ぎてしまいます。
 皆さんは毎日しっかりと充実した日を過ごしておられると思いますけれど、明日は必ず来る、来年は必ず来ると思っているとそんなことはない。いつ明日が来なくなるかもしれない。神様からお借りしている身体は、神様がお前に貸してやろう、まだお前は必要だから貸してやろうということで貸してくださるわけで、神様に使ってもらえる、神様に信じてもらえるような心遣いをする、人助けをするということが大事だと分かります。
 それであと半分、あと半分ということは先程の祭文でも読ませていただきましたけれど、来年の1月26日が教祖140年祭となります。実際に言うと約7か月くらいで140年祭の三年千日が終わってしまう。三年千日が始まった時、今の諭達を読み始めてから36回読むわけです。ところが29回も読んでしまったからあと7回しか読めない。こういう風に月日というのは経つのが早いものです。3年の間に一所懸命人のためを考え、人のために身体を動かした人が神様に受けとってもらった3年間分の蓄積は大きいものです。ところが何もしなかった人はじゃあだめかというと、まだ7か月ある。
 よく言われることですが、成功する人はこのコップを見て、まだ八分目ある、というように考えるんだそうです。ところが出世しない人は、ああもう八分目になっちゃった、と言うそうです。つまりコップが半分になってももう半分ある、まだ半分あると言って常に喜びの声に変える人と、あと半分しかなくなっちゃったと悲観する人とでは、同じものを一つ見ても心の向きが違う。まだ半分あるという人は、まだ半分何かができるということです。人を助けることができるということです。
 ということで、中元という真ん中、暑い盛りですけれど、私はこれまでの半分で人様の役に立つこと、人様ににこやかに接していられただろうか。もしいられなかったならばでは残りの半分でやらせてもらおう、ということを考える機会だと思います。そしてまた140年祭でおぢばから三年千日の働き方として出された諭達にありますように、「人救けたら我が身救かる」、また、教祖のひな形をたどろう。これらをもしやってこなかった人は、この7か月だけでも人を救けて我が身救かるという実践をすればいい。いつも申しあげてますけれども、「人救ける」ということは、自分以外の人の誰でもいい、女房でも子どもでも、隣の人でも孫でも、誰でも良いからその人たちに優しい声をかける。そして何かの役に立つようなことをさせてもらう。これがこの諭達の三年千日の間、私たちが通ろうという道の考え方です。

2.順序一つ
 今日は「順序一つ」というお話をさせていただきたいと思います。
 教祖はよく順序一つの理とおっしゃいます。順序一つの理というのは、何事も順序を踏んでいかなければ自分の目的は達成できないよ、という意味なんです。例えば、皆様がこの神様のお話を聞く。これはおそらく信者さんから聞くことになります。あるいは私のような会長という役目を担っている人間から聞く。少なくとも天理教を信じている人から話を聞く。最初はそこから始まる。しかしそれでいきなり信仰ということにはならない。その話を聞いたなら、今度は教会に運ぶ。教会に運んで教会でお話を聞く。そして教会でお話を聞いたら、今度はおぢばに帰らせてもらっておぢばでお話を聞く。これは別席の話です。あるいはおぢばの教祖の所へ行って、教祖におぢばに帰らせていただきましたと言ってご挨拶をする。この順番で初めて神様に近付くことができます。
 そういう順番をまったく抜きにして、初めての人がおぢばに行っておぢばに額づいていきなり拝んで「神様助けてください」とそこら辺の神社へ行くようにいったところで、それは神様は受け取ってくださらない。これが「順序の理」ということ。まずは神様に近付く順序というのはそういうことです。話を聞く、それからおつとめをする、それから人ににをいがけをする、人を助ける、ということをやっていって初めて神様の思召しにどんどん近付いてくる。
 例えばこの鳴り物ですけれど、皆さんこれに順序があるということはあまりご存知ないかと思います。
 鳴り物の順序は、一番中心は拍子木です。その次がちゃんぽんです。その次が太鼓です。その次が、笛です。そしてその次がすりがねです。それから今度は小鼓があります。ということで全部順番があります。ですので、例えばざっと並んだ時に、まずようぼくの方がいたらようぼくの人から順番にそれに入っていく。ようぼくも何も全部同じだったら年齢の順で入っていく。あるいは信仰の長さの順で入っていく。これは別に上下じゃないんです。単なる順番。
 あと同じようにこのおつとめも左側、男が偉いわけじゃありません。左側に男性が入りますけれども、左側にいるこの人が中心になってこの人の次が右側の、大体女性が入ります。それからまたそれぞれ二番目、三番目。ということで、自分がどんなにおてふりが上手だからといって、先輩を押しのけて真ん中に来るということはやはり順序が違う。これが「順序の理」というんです。
 その順序というのは神様への近付き方の順序。あと、鳴り物で覚えていくのも順序。おてふりを覚えておてふりを並ぶのも順序。それは決して上下とか偉い偉くないということではなくて、理の上での順序です。ですから、大教会では私も役員なんですが、私より年下ですけれど私よりも先に役員に任命された方がいらっしゃる。そうするとその方と地方に上がると私は地方の二番目に必ず入る。それが順序というものなんです。
 これは序列でもなんでもない。本部でもそうです。本部でも本部員さんがずっと並んで来られるのは、あれは本部員に任命された順番です。一番前にいる方が偉いわけではなくて、任命された古い方が前。これが実は非常に並びのいい順序。あと秩序にもなってきます。

3.好き嫌い
 ということで、信仰もこういう「順序一つの理」と教祖が言うんです。教祖も細かいことはおっしゃいませんけれども、教祖の言う「順序一つの理」というのは、信仰するにあたってのその順序というのを非常に大事にしなさいとおっしゃいます。ですから、徐々に徐々に、一つずつ信仰を高めていかなければいけないのに、それを飛び越えて、信仰の高みを求めていくというのではなくて、まず信仰を聞いたばかりの所であったならば、聞かせていただいた方の言われることをしっかりと守っていく。この人だと物足りないから、ともっと上に行って聞いてくる、とこれは順序が違うということになるんです。
 そうはいっても皆さんやはり好き嫌いがあります。私も色々好き嫌いが強い。ところが、教祖はその好き嫌いというのも厳しく、しないようにと言われています。教祖のおさしづの中にも、「好きが嫌いに、嫌いが好きに」という言葉がある。好きだ好きだと言っていると、それがいつか嫌いになることもある。しかしあれが嫌いだ嫌いだと思っていたものがある時好きになることもある。鳴り物もそうです。最初はこの鳴り物が好きだと思っていたものが、まあ嫌いになることは無いでしょうが、もっと他の鳴り物が好きになってくるということもある。そういうことで、好きだとか嫌いだとかを優先していると、実は目の前に来たことが喜べなくなるんです。
 以前私がある方から聞いた話ですけれども、糖尿病という病気があります。私も人間ドックへ行くといつも数値が限界だと言われて、それから糖質を控えるようにし、数値が良くなってもういいよと言われるとそこからまたどんどんご飯や酒を飲むと、また翌年の人間ドックで注意されるという、こういうばかなことの繰り返しをしています。そして糖尿病というのは、食べ物の好き嫌いのある人がなるんだということがよく言われています。甘いものの好きな人、お酒の好きな人、食べて飲んで運動なんかしない人、ということがよく言われています。
 そういう話をたまたま本部のある先生にお話しました。そうしたらこう言われました。「羽成さん、食べ物の好き嫌いなんてたかがしれているんだよ。本当に神様が嫌う好き嫌いは人間の好き嫌いだ。」と言われました。私はそれを聞いてから、人間の好き嫌いというのをしないように努力した。しかし嫌いな人間を好きになるなんてことはできない。そこで私は最低限の考えとして、嫌いな人間は好きでもないどうでもいい人間にするということ、何でもない人にするということに一所懸命努力をしました。そうするとやはり人間ドックで注意されたことが治まってくるんです。

4.病み損
 これは皆さんご承知のとおり、身体は神様からの借りもので、この身体に何か不調が出るということは、これは神様からのメッセージ。神様があなたの心を直しなさいと言って手紙をくださる。だから身体のどこかが痛くなった時には、この神様は何を私におっしゃっているんだろうかと考えて心を一つ直す。こういうことが「身体は借りもの」という意味です。
 これも何度も申しあげていますけれど、私が風邪を引いて薬を服んで医者へ行って治った治ったと喜んでいたら、前会長から「お前は病み損だ。」と言われまして。「病み損とはなんだ。」と言ったら「病気にならない人もいる、風邪薬なんか服まない人もいる。それに対してお前は服んでいるじゃないか、お金がかかっているじゃないか。そうしたらその人と比べたら損じゃないか。」と言うので「病み得というのがあるのか。」と聞いたら「病んだことで神様が何をおっしゃっているかと考えて心を一つ直す。」つまり今で言うと人間のグレードを上げる。人格のグレードを一つ上げる。病気をいただいたことで。それをすることによって得したことになる。つまりどんなことでも損なんて世の中にはない。そういう風に思って自分のところに色々辛いことが来た時には、神様は私を心から助けようと思ってこういうおしるしを下さるんだ、というように考える。
 教えの世界では、不満なこと、満足しないことを「不足をする」と言います。不足の心とよく言いますけれど、その不足の心がなくなるんです。ああそうか、こういう風に神様は私に期待しておるんだと思うと、不足の心はなくなる。教えの先輩方は、病気が来ると「神様がまだ私に期待をしてくださっている」と喜んでいらっしゃいます。
 今日もこの教会の大先輩方が上段に上がるのも大変だけれど、上段に上がっておつとめをされた。その思いだけでも神様は受け取ってくださる。そうすると私たちもあの人たちが一所懸命におつとめをしているんだから、身体が痛いのどうのこうの言っていられないなと思う。ということは、その方たちは苦労しておつとめに上段に上がるだけでも実は周りの人を助けているのと同じなんです。ということで、どうか神様の役に立つ人間として神様に喜んでもらえる人間としてこれからも生活をしていきたいと思います。

5.繋いでゆく
 色々と喜べない時もあるでしょう。日帝分教会というのは、初代さんが高宮のぶ先生で、高宮のぶ先生が出直して会長がいなくなってしまってから教会を引き受けたのが二代の亀田儀八先生。そして亀田儀八が出直してまた会長がいなくなって、引き受けたのが三人目の私の母、羽成芳枝先生。そして初めて三代が生きている時に私が教会長を代わることになりました。
 お運びで真柱様のお許しをいただく時に、真柱様の前へ二人で行きました。それまで日帝分教会は初代も二代も三代も一緒に行ったことがないんです。ところが三代と四代が初めて真柱様の前にお目通りをさせていただきました。その時真柱様から前会長がお言葉をいただいたんです。忘れもしません、「35年もの間、言うに言われんご苦労もあったことでしょう。その間本当によく頑張ってくださいました、本当にお礼申しあげます。」と真柱様が言われました。私はそれを聞いた時に本当に親孝行をしたなと思いました。
 それまで、大学に受かったとか司法試験に受かったとかを親孝行と思っていましたけれど、ちゃんと次の代に会長を譲って、それまでの道中を慰労されるお言葉を真柱様からいただきました。そのことがあって、老会長さんがいらっしゃる教会の若い人に、こういうわけで真の親孝行とはあの時だと私は思う、という話をしました。それはある世田谷の教会ですけれど、息子さんは東大を出て一流商社マン。その方にそういう話をしたら、なんとその方、「じゃあ教会長を継ぎます」と商社を辞めてしまって、教会を継いでその後しばらく経ってうちに来られました。お許しをいただく時にやはり同じように真柱様から自分の父親、前会長が慰労の言葉を受けた、本当に親孝行をしたと思いました、とおっしゃっていました。
 そんなことで、繋いでいく。先ほど申しあげた順序の理というのは、初代があって二代です。二代があって三代。三代があって四代。前がなければ私は初代になってしまいます。つまり四代というのは順序でこう来た。それは皆さん方が今でも支えて下さっているからこその四代なんですが、そういう風に順序というのは長年時間が経ってみるとその順序の意味が分かってきます。皆さんにも親もいらっしゃるでしょうし、子どもさんもいらっしゃるだろう。きちんとそこへ信仰を繋いでいく。そしてその子どもたちに対して感謝をしていく。親に対して感謝をしていく。これが順序ということで、これが教祖がいつもおっしゃっている「順序の理」。

「親がありて子や。子は何ぼ賢うても親を立てるは一つの理や。」(明治二十二年十月十四日(陰暦九月二十日)刻限御話)

というのは、そういう所から出てきているんです。無条件で従えというのではなくて、こちら側が立てる。これが「順序一つの理」という言葉ですので、今月はどうかその「順序一つ」というのを自分から、自分に来た順序を、これから自分が伝えていかなくてはいけない順序、これを大事に繋いでお伝えいただきたいと思います。

 昨日今日はなんとか涼しいですけれど、また暑い日が来るようです。暑い日も暑くて結構と喜びながら、またこの一か月お過ごしいただきたいと思います。

 本日はどうもありがとうございました。

2025年12月06日

2025年(立教188年)6月月次祭神殿講話 ~天理教の三原典~

 ただ今は6月の月次祭を賑やかに陽気におつとめいただきました。誠にありがとうございました。
 まだ慣れていない方々が一所懸命にやる姿というのは本当に素晴らしい。こちらも必死になって私もひと汗かいてしまいましたけれど、こういう積み重ねでつながっていくこと、諭達にもありましたけれど、「教祖お一人から始まったこの道を、先人はひながたを心の頼りとして懸命に通り、私たちへとつないで下さった。」まさに私たちがこうやっておてふりをできること、鳴り物ができること、どこかで途切れたら伝わってこない。教祖がお教えくださったその教えが今日まで伝わってきたということは、その間に先人の方達がつないでくださったということにほかなりません。
 このことを私たちはしっかりと学んでつないでいかないと、次の代へと伝わらなくなりますので、ぜひこれは一人ひとり心していきたいと思います。

1.斯道会の別席団参に参加
 先月は教会の別席団参ということで、お二人の方に別席を運んでいただきました。後ろにポスターが貼ってありますけれど、実は今年は斯道会の別席団参というものがあります。斯道会というのは、河原町大教会をもとにしてそこからつながってきた大教会の集まりをいいます。
 中根大教会ですと、河原町大教会から甲賀大教会が分かれ、それから日光大教会から分かれた中根大教会。そして那美岐大教会は中根大教会から分かれました。他にももちろん中根の系統はいっぱいあるわけですが、その大元の河原町大教会につながる大教会の集まりを斯道会といいます。
 その斯道会が、第一回の別席団参を実施したわけです。斯道会に連なる中根として、当初は誰も参加予定ありませんでしたが、結局日帝からお二人も行ってくださいました。
 中根では二人だけということで、中根の代表のような形で行ってもらえたので、大教会長さんが非常に喜んでおられました。また、よふぼくの方々にも参加いただき、皆さんも楽しんでおぢばがえりさせててもらいました。
 今年は10月の大祭が土日にかかりますが、大祭は毎年とんでもなく人が多いところで、さらに今年は年祭を直前に控えての大祭ですので、本当に賑やかなおぢばをご覧いただけると思います。
 私は皆さんが25日にお帰りになった後、26日に参拝させていただいたんですが、それこそ神殿に入るのが大変でした。ものすごい人で、中庭も全部いっぱいで。これが140年祭の当日にはどういう風になるのかと非常に楽しみでおります。後ほどそのご連絡もさせていただきます。

2.天理教の三原典
 今日は初めておてふりをされた方もいらっしゃいますので、天理教の三原典ということについてお話をしたいと思います。
 みなさん、三原典とはなんだか分かりますか?天理教の三つの原典。一つが「おふでさき」、ひとつが「みかぐらうた」、そして三つめが「おさしづ」です。
 この「おふでさき」と「みかぐらうた」と「おさしづ」、これが三原典です。「おふでさき」は、教祖が神様から「筆をとれ、筆をとれ」といわれたので筆をとると、自然に筆が動いていったというもので、1711首あります。これが一番の原典。
 そして二つ目が「みかぐらうた」です。これも教祖が全部書いて教えていただきました。そしてこれには手も付けていただいた。
 そして三つ目が「おさしづ」です。諭達にもありますけれど、「ひながたの道を通らねばひながた要らん。(中略)ひながたの道より道が無いで。」というおさしづがあります。こういうおさしづが膨大な量ありますけれど、今はインターネットで全部検索できます。スマホでも全部見られます。
 この三つを天理教の三原典と言います。そしてこの三つのエッセンスを一冊の本にまとめたものが「天理教教典」。ということで、天理教の三原典をしっかり覚えていただきたいんです。

3.おふでさき
 まず一番最初の「おふでさき」というのは、慶応3年から明治15年までの間の18年間で書かれました。
 そして同じように「みかぐらうた」。これは慶応3年から明治15年、最終的な修正をされて「いちれつすますかんろだい」と言っていたのを「いちれつすましてかんろだい」となったのが明治16年。
 そして「おさしづ」。当時教祖と日常に接していた方たちは、教祖のおっしゃることを耳で聞いていて心におさめていたけれど、記録をしていなかったんです。ところがいよいよ教祖の身上が重くなり、明治20年の1月26日に身を隠されたわけですけれど、当時のみなさん、あわてて明治20年から書き出したんです。
 「さあ/\一つの処、律が、律が怖わいか、神が怖わいか、律が怖わいか。」という明治20年1月のおさしづがあります。そして教祖が身を隠されてから教祖の代わりに本席さまである飯降伊蔵先生が言われたこと、これは神様がおっしゃることですけれど、飯降伊蔵先生の言われたことは全部書いてあります。これが明治40年までの20年間にわたって「おさしづ」はあります。
 「みかぐらうた」、「おふでさき」は15年前後で書かれたもの。そして明治15年に「おふでさき」も「みかぐらうた」も完成をしたんですが、教祖が身を隠されたのは明治20年ですから、教祖は「おふでさき」と「みかぐらうた」を5年の間しっかりと教えて下さったんです。そのおかげで私たちは今日のおてふりで教祖の教えて下さった通りの手ができる。ということでおつとめに対してこうおっしゃっています。

「このつとめで命の切換きりかえするのや。」「一つ手の振り方間違ごても、宜敷くない。」「手がぐにゃぐにゃするのは、心がぐにゃぐにゃしているからや。」(『稿本天理教教祖伝』)

とおっしゃられました。教祖がせっかくこうやって振りなさいと教えてくださったものを、我流で振っちゃたら申し訳ない。踊りでいえば教祖は本当に家元ですから、家元の言うとおりに踊らなければ信仰していることにならない。学んでいることにならない。
 また、この「おふでさき」というのは1711首あります。これはひらがなで書いてあるので「かなの教え」というんですが、実は「かなの教え」ほど難しいものはありません。色々な意味にとれるので、それぞれ皆さんがおふでさきを読みながらそれを悟っていくんですが、この悟りが正しいかどうか分からない。そういうときにおふでさきに、

 「にち/\にすむしわかりしむねのうち せゑぢんしたいみへてくるぞや」(6-15)

というおふでさきがあるんです。日々に心が澄んでだんだん分かってくる。神様の胸の内が分かってくる。しかしそれは成人次第見えてくるんだ、今、私たちはまだ子どもの時代にいますから、子どもとして見えるものはわずかしかない。これが一所懸命に心を澄ませて成人すると、子どもの頃に見ていた、理解していたものの違う意味が分かる。そしてまたもっと成人すると、もしかしたら神様が本当におっしゃりたいことが分かるかもしれない。
 そういうことで「かなの教え」というのは小学生でも分かるけれど、大人になって、80、90になって人生しっかりやってきた人にとっても「ああこういうことだったんだ」ということを感じることができる。これが「おふでさき」ですので、ぜひ「おふでさき」というのを身近に置いて読んでいただけたらと思います。

4.みかぐらうた
 そして二番目の「みかぐらうた」。これは神様が書いてある言葉と手振りで教えてくださった。だからおふでさきのように言葉で言っても時として忘れてしまうけれど、みかぐらうたをしっかりと覚えると、例えば「ひとのこゝろといふものハ うたがひぶかいものなるぞ」という、この「うたがひぶかい」というのは神様に背いている手ですよね。そういうおてふりでみんな一つひとつ分かる。
 「むね」というのは胸。「すむ」というのは胸が澄むんだから澄む。「たすける」というのは全部の人を世界中が助けるんだから下までやる。あと「みえる」というのは目の前のここだけでやる。おてふりをちゃんと教えてくださった。言葉と手振りがあって、今日初めてやった方も感じたと思いますが、心が明るくなってうきうきしてくるでしょう?まさに陽気づとめというくらいのものですから、心がいずんだならおつとめをさせてもらう。
 そして特に一番、重い軽いは無いんですが、一番最初に出てくるということで、しかもおふでさきの一番目から八番目まで出てくる、「よろづよのせかい一れつみはらせど むねのわかりたものはない そのはずやといてきかしたことハない しらぬがむりでハないわいな」。
 これはおふでさきでいうと「よろつよのせかい一れつみはらせど むねのハかりたものハないから」(1-1)、「そのはづやといてきかした事ハない なにもしらんがむりでないそや」(1-2)、とこういう風におふでさきにあるのを、教祖はおふでさきの最初の八つを、歌いやすいようによろづよ八首にしてくださったんです。
 これはどういうことかというと、よろづよというのは神様がおっしゃっているんです。「よろづよのせかい一れつみはらせど」、世界中を見渡したけれども、私の胸、神様の思いを分かった者は誰もいない。しかしそれは今まで説いて聞かせたことがないから、「しらぬがむりでハないわいな」。ところがこの度は神が表へ現れてきた。天保9年10月26日。「このたびハ神がをもていあらハれて なにかいさいをといてきかする」(1-3)。委細を説いて聞かせたならば、「いかなものでもこいしなる」。
 私は天理教のこの「恋しい」という言葉が大好きなんです。普通の宗教で神様が「恋しい」なんていう宗教は恐らく無いと思います。仏様も「恋しい」なんて使わないと思います。この神様の教えは、子どもが、親の目が離れてちょっと親がいなくなったら親を恋しがって探して泣きますね。ああいう気持ちになるんだ、というんです、この神様の教えが分かったら。委細を聞いたなら何もかもみな恋しくなる。神様を恋しくなるんだと。これがこの神様の教え。
 ですから皆さん、よろづよ八首の時は、自分が神様になったつもりで、神様が人間に言っている言葉ですから、そして神様の思いを手振りできれいにちゃんと、「よろづよのせかい一れつみはらせど むねのわかりたものはない そのはずやといてきかしたことハない しらぬがむりでハないわいな」ということをしっかりと自分たちが神様になった思いでやってください。
 そして一下りからはそれぞれ神様がおっしゃっていること、人間が神様に申しあげることが混ざっていますから、てをどりしながら、これは神様がおっしゃっていることか、人間が言っていることか考えながらやらせてもらう。それが神様に近付く道なんです。
 そういうわけで「おふでさき」と「みかぐらうた」、これは人間に分かりやすいようにわざわざかなにしてくださった。そしてかなにしてくださったということは、子どもから年寄りまでが人生に応じて悟り方が変わってくるということです。
 だから一所懸命に勉強し、一所懸命に人を助けないとその神様の本当の思いが分からない。ですから年を取るというのは本当にすてきなことであって、世界が見えてくる。ということは年寄りが読んでいるみかぐらうたと若い人が読んでいるみかぐらうたとでは受け取り方が違うんです。
 だからそれを毎日毎日みかぐらうたをやっていく中ではっと、神様はこういうことをおっしゃっているのかということが分かってくるようになりますので、この「おふでさき」と「みかぐらうた」というのはこういう思いで接していただきたいと思います。

5.おさしづ
 そして「おさしづ」ですけれど、「おさしづ」とはなかなか接することができないんですが、「おさしづ」の本が出ています。私は何かあるとおさしづを読ませてもらってああそうか、と非常に心が穏やかになる、おさしづのダイジェスト版があります。
 「おさしづ」は全部で10巻くらいあるものすごい量で教会にもありますが、なかなか分からないんですが、そのおさしづをまとめた本がありますので、そういうものもぜひ読んで、教祖はこういう時どうやっておっしゃっているのかな、という風に読んでいただくとよろしいかと思います。
 つまり「おふでさき」や「みかぐらうた」や「おさしづ」に接するということは、親神様、教祖に直接声を聞きに行っているということなんです。ですから皆さん、何か辛いことがあったり悩むことがあったら、まずは「おふでさき」や「おさしづ」、「みかぐらうた」を読むという、つまり神様に聞きに行ってください。
 今、神様は声に出してくれませんけれど、おさしづの中には「神様うちの子どもがこういう病気になってしまいました」と言ってそれに対して神様のお答えが書いてある。これが「おさしづ」なんです。それとは全然関係ない時に神様が突然神様の言葉で神様のことをお話しくださるものとか、色々種類はあるんですが、「身上のさとし」といって病気を聞きに行くと病気のことを教えてくださる。
 私も親からよく言われました。風邪をひくと「お前心にすきま風が通っているからだ、心で不足しているからだ、心に不足をすると風邪をひくんだよ。これは神様からの手紙なんだよ」ということを教えてもらいました。そして心にすきま風が通っているということは、きっと自分が人に冷たい言葉を出したり、自分が神様に対して不足を申しあげたりしている時にそうなるんだろうなあということで、そういう「さとし」というのはいっぱいあります。
 しかしそれはその人に対してのことですから、万人に当てはまる訳ではないんですが、ただ自分たちが読んでみてそこで心にぴたっとくるようなものがあればそれを読ませてもらう。
 ということで今日は天理教の三原典、「おふでさき」、「みかぐらうた」、「おさしづ」、この内の「おふでさき」、「みかぐらうた」は教祖が自ら作られて教祖が完成されたもの。「おさしづ」は教祖のものはわずかひと月しかありませんけれど、それ以後は本席様に親神様が入り込んで本席様がお話くださった。そういうものが「おさしづ」というものですので、この天理教の三原典をしっかりと読んでください。そしてまたその三原典をまとめたものが天理教教会本部が発行した「天理教教典」です。
 ここでちょっと弁護士として法律的なことを言いますけれど、天理教の教会というのは宗教法人の登記がしてあるんです。天理教の登記はしているんですけれど、法人の目的というのは「親神天理王命を奉じて天理教典を原典として信仰をする」と書いてあるんです。
 だから教会は、天理教の教典をしっかり読まないと教会とはいえない。そんなことで教会でも勉強会をまた再開しておりますので、そちらの方にご参加いただいてしっかりと原典に触れていただきたいと思います。

6.どんなことも喜ぶ心
 東京もいよいよ梅雨入りしたそうですが、暑いのと寒いのが入り混じって体調を崩しやすい時です。こういう時こそ心で喜ぶ。「梅雨って大変だな」と不足してはいけません。
 先程の斯道会の河原町大教会の深谷源次郎先生は、梅雨の時に信者さんが、「会長さん、毎日毎日雨で大変ですなあ」と言ったら、けっこう源さんと呼ばれる方なんですが、「それはけっこうやなあ」とおっしゃった。「これがまとまって降ってみろ」と。ばらばらに降ってくれるから集中豪雨にならない。雨がしとしとと毎日降ってくることですら喜べるというのを、心を作っていれば決して病むことはありません。心が豊かで心で喜んでいれば病気なんかきません。
 また話があちこちへ行ってしまいますが、天理のよろづ相談所病院、憩の家の副院長をやっておられた山本利雄という先生、本部準員のお医者さんで、天理教の教会長をやっていた方がいました。その先生が舌がんになった。
 舌がんになったら、「いやあ、舌がんになって本当に嬉しいんだよ」とこう言っていました。聞いてみたら、「がんというのはそもそも年寄りの病気だ、がんになるまで生かせてもらった」と言うんです。それに舌がんだったら命に別条はないから、唾液が出ないから水を飲み飲みだけど話ができる。本当に舌がんで有り難かった、がんになるような齢まで生かせてもらった、そして舌がんで良かったと言って喜んでおられました。
 これが私たちが信仰している理由だと思います。いざという時に喜べる。他の人では喜べないことを喜べる。この心を作ってくださるのがこの天理教の教えですので、どうか皆さん、どこか身近な所からでも喜ぶようにしてこの梅雨を不快なものにしないようにしていただきたいと思います。

 本日はどうもありがとうございました。

2025年10月04日

2025年(立教188年)5月月次祭神殿講話 ~種をまく旬~

1.旬の意味
 ただ今は5月の月次祭、人数が少ない中でしたけれど陽気につとめさせていただきました。皆さん鳴り物も一所懸命にやって、おてふりも一所懸命にやって、鳴り物をしている方は鳴り物がぴたっと合うと自分も心楽しいですが、何よりもてをどりしている人たちを勇ませるんです。
 てをどりをしている人たちは、やはり鳴り物の音を頼りに勇ませてもらう。鳴り物がぐちゃぐちゃだと踊る方もなんとなく心が勇まない。つまり鳴り物は自分も勇むけれども、人様を喜ばせるという、まさに人を助けて我が身助かるという見本みたいなものです。
 そして諭達にも「身上事情で悩む人々には、親身に寄り添い、おつとめで治まりを願い」と書いてあります。つまりおつとめをすることでそれぞれの悩んでいる方たちが治まっていくことができる。それぐらいおつとめというのは非常に大切な、自分も助かるけれども、何よりもおつとめをしっかりとやることで人様が助かるという、非常に大切なものです。
 そんな中でもう耳にたこができているように思われるでしょうけれど、教祖140年祭、来年1月26日です。その140年祭に向けて三年千日を皆で一所懸命にやらせてもらいましょう。この三年千日というのは、年祭までの3年間、1000日間を一つでもいいから教祖のひな形を通らせてもらうということになっているわけです。そこでなぜ三年千日にやらなくてはいけないのか、ということについて、今日は「旬」ということについてお話をしたいと思います。
 皆さん、旬の野菜はおいしいとか、今あの人は旬だね、とか色々「旬」という言葉を使います。「旬」というのはおそらく色々な意味があるでしょうけれど、一番ふさわしいとか、一番出来がいいとか、一番ぴったりした時期とか、こういうことだろうと思うんです。
 私は夏休みは田舎でずっと過ごしていましたけれど、毎朝畑に行ってきゅうりとかなすとかいんげん豆をとってくるんです。そうすると毎日毎日食べているからだんだん飽きてきましたけれど、今考えてみるとあんなに生きのいいなすやきゅうりは食べたことがないです。それぐらい夏に食べるきゅうりはおいしい。ところが今は温室だから真冬でもきゅうりはあります。ところがやはり「旬」というのは、本当においしいものは夏の季節にあるもの。りんごだって真冬のりんごはおいしい。夏にもりんごは出ているけれど、それは冬にとったりんごを食べているわけで、旬のりんごというのは冬のものです。
 そういう風に考えますと、「旬」というのは何事にも一番ふさわしい、一番適切な、ということになるんですけれど、この「助かる」、我々が神様から助けてもらういわば一番助けてもらう季節、旬というのが、実はこの年祭なんです。その年祭の三年千日をしっかりやらせてもらおうということで、これが旬を生かしていこうということなんです。

2.種をまく旬
 これは聞いた話ですけれど、白菜というのは真冬がおいしいですね。12月、1月、2月の真冬の白菜というのは本当においしい。まさに白菜の旬というのは真冬なんですけれど、私は都会で育っていますから、物が出来あがったところを食べることを旬というのだと思っていた。ところが、その白菜には、種をまく旬もあるというんです。これは8月の15日、お盆の前後だそうです。このお盆に忙しいからと言って先にまいたりお盆の後にまいたりすると、実は冬のあんなに素晴らしい白菜ができないのだそうです。
 つまり、旬というのは種をまく時にも旬があるということ。適切な時期というのがあるということ。これはまさに旬に種をまく、この三年千日で、教祖140年祭までの三年千日の旬と言うのはこういうことなんです。刈り取ることではなくて種をまく時なんです。その旬についてこういうおさしづがあります。

「寄り来る処、日々種を蒔く、一つ種を蒔く。旬々の理を見て蒔けば皆実がのる。旬を過ぎて蒔けばあちらへ流れ、遅れてどんならん/\、」(明治二十二年七月三十一日(陰暦七月四日))

「旬々が来る。旬と見たら運ばねばならんで。」(明治二十三年七月二十二日(陰暦六月六日))

という教祖のお言葉なんですが、「一つ種を蒔く。旬々の理を見て蒔けば皆実がのる」、実が成る。「旬を過ぎて蒔けばあちらへ流れ、遅れてどんならん/\」、肝心な時にあっちへ流れて実が成らなかったり、遅れて実が成ったり。どうもならん。つまり「旬々の理を見て蒔けば皆実がのる」、すると「旬々が来る。旬と見たら運ばねばならんで」。まさに三年千日。
 この三年千日の間、運ぶというのはどんなことかと言いますと、親元へ運ぶということです。皆さんも親がおありでしょうけれど、親元に運ぶ、まあ私なんかでも親ですからやはり子どもが来てくれるというのは本当に嬉しいものです。孫まで来たらもっと嬉しい。そのように人間ですら子どもが来るのが嬉しいんですから、人間の元の親である神様が、子どもたちが来たらどれだけお喜びになるか。神様が喜んでくれたならばどれだけご守護をくれるか、ということなんです。
 だから皆さん、この旬の三年千日の間にせめて親元、おぢばへ帰らせてもらう。これが「旬と見たら運ばねばならんで。」という意味なんです。そして旬に種をまく、旬に運ぶとどういうことが起きるかというと、ご守護がいただける。

3.守護というもの
 ご守護というのは大変なんです。実は昨日私の友人から電話がありました。「いよいよ透析をすることになっちゃった」と。透析ってどれくらいやるんだ?と聞きました。私は週に一度くらいかと思っていたら月水金とやるんだそうです。一日おきにやる。そうするとその数時間の間なにもしないで、要するにもう透析が主で機械に血液をきれいにしてもらう。血液が汚れたら生きていけませんから。そうすると私たちは自然の透析を神様がしていてくださっている。
 友人は病院に行って月水金、さらにこう言われたそうです。透析をやると大体寿命は4~5年ですと言われたそうです。それでかなり落ち込んでいました。考えてみれば私たちの年齢で4~5年というと82~3歳。もはや82~3歳まで生かしてくれるという保証をもらったようなものじゃないかとは言いましたが、先日申しあげましたけれど、明日死ぬかもしれないけれど誰も死ぬとは思っていない。ところが透析をやる人は、この透析というのは機械でやるので4~5年が寿命なんだよと医者に言われたそうです。
 私どもは機械ではない、自然の神様のご守護で透析を身体の中でやってもらっている。そうするとそのやってもらっていること、これがまさにご守護なんです。そのご守護が切れた時には人間が作った機械を使わなければいけない。今は何とか彼がたすかるように神様のお話をさせてもらっています。
 うちの前会長がよく言いました、「耳も眼も歯も、人工のものは高いよ」と言いました。私の母は網膜剥離で片眼を摘出しまして義眼を入れた。義眼になって年を取ってだんだん肉が落ちてくると眼も小さくしないといけない、義眼も入れ替えなくてはいけない。耳は耳で補聴器を入れなくてはいけない。あと歯は歯で入れ歯を入れていました。全部自分の物だから高いよ、と言っていました。
 しかし我々は眼は神様から借りている。耳も神様から借りている。歯も神様から借りている。全部借りもの。借りものにお金を一円も払っていないじゃないですか。これがご守護と言うんです。そうするとそのご守護をもらうためには、旬に運べとおっしゃっている。そしてそのご守護についてこういうおさしづがあります。

「皆どんな事も守護ありて成るもの/\。」(明治三十三年六月三日)

 どんなこと、今話したことですね、友人が透析をやるけれど私はやらない、こんなことも「守護ありて成るもの」。色々な病気がある、あるいは家の中で心配がある。それも何もそれなりに動いている、それは全部守護があるから。ではその守護をもらうためにはどうしたらいいかというと、

「人間心立てゝ神の理薄なる。神の理薄なりて何の守護有るか無いか、よう聞き分け。」(明治三十一年一月十九日(陰暦十二月二十七日))

 人間心を立ててしまうと神様からいただくご守護が薄くなる。神の理が薄くなったならば何の守護があるかないかよく聞き分けろ、と。つまり神様の理が薄くなる、神様のご守護が薄くなるということは、神様の所へ運ばないということです。神様に感謝をしないということです。
 神様のもとに運び、神様に感謝をして日々御礼を申しあげる。そして何があってもこの月次祭は神様のもとに行かせてもらおう、そしておつとめを手伝わせてもらおう。でも今日は忙しいから行けないなあという、これは人間心です。
 人間心を立てると神の理が薄くなる。神の理が薄くなったらば何の守護があるかないかよく聞き分けろ。つまり神様は常々旬の時には旬の種をまく。そうすればご守護によってどんなことでも成ってくる。そして人間心よりも神様の方の理を立てる。たったこれだけのことで健康で病院にもかからず、毎日食べたいものを食べ、ゆっくり眠くなって休ませてもらって、朝ぱっと目が覚める。
 全部神様のご守護だということを、「皆どんな事も守護ありて成るもの/\」。ぜひこういう思いで、何が起きてもありがたいな、何か人から見たらつらいことであっても「ああこんなことで良かったなあ」という風に喜ぶ。それがご守護をさらにいただけることであろうかと思います。

4.悩む人に寄り添う
 いつもながら思うんですけれども、当たり前と思っていたことが、今回改めて友人から聞かされて、そうか、神様のご守護がなくなると血液をきれいにするために週に3回も一日おきに自分の時間がなくなって、しかも生きるためにそれをやらないと生きていけない。それでもお医者さんからすると寿命は4~5年ですよと言われてしまった。そんなことを考えたら、私たちどれだけありがたいご守護をいただいているかと思います。
 一方でそういう方たちに対して言葉を掛ける。身近に寄り添ってお助けに行かせてもらう。これが大事なことです。病んだ人を見て「私は良かったなあ」だったらこれは並みの人。病んだ人を見て自分のことを神様に感謝をするけれども、どれだけつらいだろうかと思ってその人に寄り添う。これが人を助けて我が身助かるという意味です。
 どうかつらい人を見た時には、つらい人に何ができるだろうかということを一つ考えて、言葉でも良いんです、言葉だけでも良いから「おつらいですね」「何か私にできることはありませんか」ということを声を掛けるだけでも神様の気持ちに沿った生き方になろうかと思います。

 さて、今月は団参を予定しております。一人でも多くの方とご一緒におぢばがえりをしたいと思いますので、どうかよろしくお願いします。
 常に神様に心をつなぐ、教会に心をつなぐ。常に頭の中で神様、神様とつないでおく。これだけで神様は常に皆さんの、私たちの身の周りにいてくださいます。神様を忘れたって、神様は親だから見守ってくれています。皆さんの親と同じ。それ以上に我々を作ってくださった神様ですから、我々につらい思いをさせないように色々心を配ってくださいます。せめて「神様、神様」という気持ちだけはつないでいきたいと思います。
 これからまた暑くなったり寒くなったり、梅雨も始まるでしょうけれども、どうか体調を崩さずに感謝の心を持って、この一か月お過ごしいただきたいと思います。

 本日は誠にありがとうございました。

2025年08月27日
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